3・11

海のギャラリーの裏の木や草を刈って、裏山へと登れる入口が出来ました。これは津波対策です。
裏山への入口
試しに少し登ってみました。
裏山①裏山②
大きな岩があったりするけど思ったより上り易い感じです。
しかしお年寄りにはロープが必要かもしれません。
1年前の東日本大震災がなければ、こんな対策はしなかったでしょうね。


1年前の今日、私は事務所で普通に会計をしていました。
地震を知ったのは"北の方で地震があったみたいだよ”という人伝てでした。

私の母は岩手県陸前高田市の出身で、親戚3家族が陸前高田市にいる為、北の方で地震があると必ず震度が気になり、地震情報をみると津波警報が出ていましたが、岩手には最初50cmの津波と記されていました。

安心して家に帰るとテレビ画面を呆然と見ている父と母。
私もテレビ画面をみて驚きました。
黒い泥に車や家が次々に流される映像。それは宮城県の映像でした。

続いて岩手県山田町・大槌町・大船渡など被害映像が流れる中、陸前高田市の映像が全く映りませんでした。
”被害が無いから映らないのか・・・それとも・・・”

不安でもどうする事も出来ませんでした。慌てて岩手に電話をしても当然繋がるわけもなく。

それから1時間経ってやっと陸前高田市がテレビ画面に出たのでした。
市が壊滅的被害をうけていると・・・

自分の生まれた故郷が波にのまれ、消えていく光景を母はどんな気持ちでみていたでしょうか。

安否ももちろん全く分らず、電話の災害伝言板も全然つながらない。
2日後やっと災害伝言板につうじても、災害伝言板は被災地から近い場所からの電話が優先される為、高知にいる私達は使用できませんでした。

災害伝言板を使用して思った事は、被害が少ない人は”私達は大丈夫です”と伝言を残せますが、被害が大きいと電話も無いので伝言板なんか使えません。

なんの為の災害伝言板でしょうか。

それから毎日泣いては落ち込む母。夜も眠れないのか夜中に起きてぼんやり夜空を眺めていました。
私は毎日インターネットで避難場所の避難者名簿の中から親戚の名前を探しました。もしかしたら市外に行って津波にあったかもしれないと思い市外の名簿も見たけど親戚の名前は見当らず・・・



私は岩手のいとこ達と20年以上あっていません。
声も覚えていません。
顔も年に1~2回送られてくる写真を見て知っているだけ。
年賀状にはお互い「高知(岩手)に遊びに来てね」と社交辞令のような言葉だけ。

そんな遠い遠いいとこ。
こんなにも心配し、”生きていて”と本気で祈ったのは初めてでした。

安否が分ったのはyahoo伝言板を通じてでした。

”陸前高田市の●●ちゃん家族は無事です”

という伝言と、知らない名前と電話番号が載っていました。
藁をもすがる思いで電話をすると、全然知らないいとこのいとこでした。
この震災がなければ存在さえも知らなかったはず。

岩手の親戚は家は流されたけど、みんなすぐに逃げた為無事でした。

昨年は”絆”という言葉をよく耳にしましたが、この震災を通して本当に血のつながり”絆”を実感しました。
全く知らないいとこのいとこに電話をし、伯母さんのご主人の弟さんと初めて話をし、遠くても会っていなくても全然知らなくても、確かに繋がっていると思うことが出来たのでした。

私にとって2011年3月11日は、一生忘れられない誕生日になったのでした。
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